ユネスコ世界遺産・二条城(2)本丸御殿(重要文化財)+天守台(2005年秋撮影)

本丸御殿全景(天守台から撮影) ※クリックすると拡大写真表示
この建物の前身は江戸時代末期の桂宮御殿であることは先述しましたが、当時の桂宮当主というのは和宮の異母姉・淑子内親王です。宮家の当主が女性というのは調べた限りでは彼女が最初で最後のようです。また、和宮も一時期この屋敷に住んでいたことが知られています。

本丸御殿の正門(車寄せ)
本丸御殿の入り口は本丸の一番西の端にあります。しかし、本来この門は南面していました。移築するときに本丸内に納めるために90度西に回ったのですね。
左下に看板が出ているのが分かりますでしょうか。実は、二の丸御殿(国宝)が通年公開されているのに対し、本丸御殿(重要文化財)は春と秋にそれぞれ2週間程度しか公開されていないのです(この写真は2005年秋の特別公開の時のもの)

  本丸御殿を南西隅より
※左側は写真クリックで大きい写真を、右側は一部をクリックで拡大写真を表示
二条城本丸御殿は、江戸時代の公家の建物としては冷泉家(京都市上京区に現存、通常非公開)と共に貴重な物です。2階があるというのも時代を象徴していると言われています(江戸初期に建てられた二の丸御殿には2階がありません)。もっともこの2階建ての建物、実は中2階があるので、実際は3階建てなんですが。
この建物は明治時代には「二条離宮」として明治天皇や大正天皇、大勢の宮家が使ったので、中2階にはその当時の調度品も残されています。

また、淑子内親王の趣味である能舞台の仕掛けや、台所やお風呂(!)も残されています。全体的には簡素な物で、二の丸御殿と比較すると非常におもしろいです。

ところで、二条城には江戸時代中期まで天守閣がそびえ立っていたのを知っている人は少ないでしょう。
 二の丸西側から見た天守台 ※クリックすると真下から見上げた写真を表示
二条城の天守閣は初代と2代目があります。初代は新築でしたが、後に淀城に移されます(こちらでその当時の「洛中洛外図」に書かれたその天守閣が見られます)。2代目は関ヶ原の合戦後、徳川家康が一時再建した伏見城のそれを移築したものです。小振りな天守閣の回りには隙間が出来てしまったので、その隙間に4つの小さな櫓と渡り櫓を建てて天守閣を囲んだユニークな建物でした。しかし、寛延3年(1750年)に落雷で炎上してしまいました。

ちなみに移築された淀城の天守閣も宝暦6年(1756年)に落雷で焼けてしまったため、この世から二条城の天守閣は消滅しました…。
※この件についてはアマチュアの研究家の人が研究書を出しているようなのでご参考にどうぞ。→「二条城に二つの天守閣あり」
※なお移築元については大和郡山城説もあるそうです

本丸御殿の見学を終了したので、西側から二の丸へ抜けます
 意味なく屈曲。
ちなみに東側では本丸と二の丸は木製の太鼓橋で結ばれていましたが、こちらでは土の橋で事実上陸続きです。防御上の意味無し?!

二の丸の西側は、二の丸御殿のような建物も残っておらず、閑散…というより雑草がすごくて藪蚊もすごいです。ぐるっと北側の方を回ると「清流園」というお庭がありますが、これまた二条城建築当初からある物ではなくて、戦後、角倉了以屋敷跡の庭から庭石などを移築して新造された庭だったりします。戦後しばらくは進駐軍の家族専用のテニスコートとかあったらしいです。
その外れに 二条城北大手門。(重要文化財)
現在のメインゲートとなっている東大手門と同規模の立派な建物ですが、現在こちらは事務用+VIP用の開かずの門となっています。近づくこともできません(涙)
外側から見ると なかなか立派な門です。(撮影 2006年春)

この門前を右折すると、二の丸御殿に沿って東大手門に戻ります。迂闊にもデジカメの写真がなかったのですが、城郭建築としては珍しい「台所」が現存しています(他残っているのは姫路城ぐらい?)もっとも「台所」というのもおそれ多い畳敷きの立派な物なんですが。幕末には幕府関係者の宿舎となっていたため、試し切りの刀傷跡なんかもわんさか残っていました(○。○)。
通常非公開ですが、ここは春と秋のライトアップ時などに特別公開されることもあります。

次に桜の名所でもある二条城をご案内。→こちら

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