ユネスコ世界遺産・二条城(1)二の丸御殿(2005年秋撮影)

身の上話はこの程度にして、本題にはいる。

 二条城といえば、これ。正門に当たる東大手門(国重要文化財)。
但しこの写真は城の内側(つまり裏側)から撮影した物です。 ※クリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示

この門は東映太秦映画村の正門のモデルとなったことでも有名(かも)です。
門自体は立派なのですが、通常のこの時代の城門にあるべき桝口(中にはいるのに90度直角に曲がらないと次の出口に出られない。)構造になっていないということ自体、この二条城が「城」と言うより「徳川家の宮殿」として建てられた事情を表しています。

実はいきなりですが
二条城のここが島津家縁の場所なのです。
慶長15年(1615年)、大坂夏の陣が終わり、豊臣側に付いた長宗我部盛親は逃亡中にとらえられ、大雨の中、ここでさらしものにされていました。そこに島津家久(義弘の息子の方)が登城してこの様子を見るなり、盛親を哀れんで、自らの傘を与えたという逸話が残っています。(詳しくはこちらで→「大坂の陣絵巻」)

盛親がさらされていたというのは 北側?南側?
どちらかだったんでしょうね。但し!この東大手門は1662年に建てられた物で、家久が盛親とランデブーした当時とはやや様相が異なっていると思われます。

ちなみにこの東大手門内部は2004年に一度臨時公開されたので見に行ったのですが、何もない殺風景そのものの内装でした_(。_゜)/。ただ、先述したような桝口構造でもない防衛機能無視!の門なのに、一応石落としが付いていたのには苦笑。

東南隅櫓(国重要文化財) ※クリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示
後方の方、角度の関係でわかりにくいですが、東大手門です。
この隅櫓は先述した「徳川家光が後水尾天皇を接待する」さいに新築した物で1626年に作られました。

 番所 ※左のあたりをクリックすると世界遺産表示を別ウィンドウで表示します。
東大手門を入ってすぐ北側のところにある物で、実際に江戸時代当時に幕府役人が詰めていたもの。中の実演マネキンが埃かぶってわびしげ…ヾ(--;)

この番所の前を通って1分ほどで二の丸御殿に到着。
  国宝の唐門 ※クリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示
この国宝の門を通ると…
 車寄(大屋根の建物)と式台(唐破風屋根の玄関) 両方とも国宝
※クリックすると別ウィンドウで別の角度の写真を表示
これは観光ガイドの二条城の紹介で一番よく見る写真ですね。一般客は正面玄関である式台から入場しますが、修学旅行などの団体客は車寄の横手からはいることになります。

 式台のUP ※欄間をクリックすると別ウィンドウで更に拡大写真を表示


車寄を真横から

 車寄に連なる遠侍
※クリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示

二の丸御殿の横に広がる庭も後水尾天皇の行幸に供えて小堀遠州により整備された物で、特別名勝となっています。
  
※クリックすると別ウィンドウで拡大写真を表示
現在は散歩しながら眺めるようになっていますが、本来は御殿から眺めて一番よい景色が見られるように設計されていました。左2枚の写真は南側の池を撮影した物ですが、この南側の向こうにも庭園作成当時は後水尾天皇を歓待するための御殿が建っていました。結構ぎゅうぎゅうだったようです。

この二の丸御殿庭園を囲む塀を抜けると、本丸御門(重要文化財)が見えます
※写真をクリックすると、北側側面の眺めがみられます。

窓が無く、変わった作りの門です。というのも、かつてはこの門の2階と二の丸御殿が廊下でつながっていたんですね。
橋も現在は欄干のある太鼓橋になっていますが、かつては櫓のような橋が架かっていたと考えられています。

門をくぐると、数少ない城郭らしい場所。かっこよく枡形構造。
…但し、肝心の本丸の縄張りが単なる正方形なので、見た目で圧倒するだけの意味しかなかったように思われますが_(。_゜)/

正面にちらっと見えている建物が「本丸御殿」になります。
「あれ?二の丸御殿と雰囲気が違う…」と思ったあなたは非常に鋭い。
実はこの建物は江戸時代末期、桂宮の御殿として御所内に建てられた物が明治になって移築された物で、元から二条城に建っていた物ではないのです。

では本丸御殿へgo

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