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高野山と島津。(島津家四番墓)

 
(左)2004/12/14撮影 (右)2005/11/10撮影
朝鮮役慰霊碑を建てた島津忠恒こと十八代藩主になってしまいやがった(^^;)島津家久の墓です。
ちなみに真ん中が家久、向かって左が島津光久(家久次男)、向かって右側が島津綱久(光久長男)の墓です。
中世の墓として典型的な形の「五輪塔」です。しかし、70万石の大藩の藩主の墓という事情もあり、高さは見当で3m程度と異常に巨大です。
ちなみに名前の「四番墓」というのは、奥の院の石塔群の中で4番目に大きいから。

島津家久墓碑のUP
「寛永十三戊寅十二月二十三日行幸/薩隅日三国前太守 黄門従三位慈眼院殿 栄心琴月大居士○○ /為先父家久追薦 松平薩摩守光久営建」とある。



島津光久墓碑のUP
島津光久は島津家久の次男。父の跡を継いで薩摩藩2代藩主(島津家十九代当主)となったひと。
「薩隅日三列前太守 従四位上左近衛権中将 源朝臣光久霊塔 寛陽院殿泰雲慈涅大居士 為先考追善 松平薩摩守源朝臣綱貴 建立為」とある。

ちなみに同場所に墓がある島津綱久は光久の長男。光久が長命だったため父に先立ち、藩主になれなかった。綱貴はその綱久の長男(光久の孫)である。綱久の墓の文も戒名が異なるだけでほぼ同文、建立者は島津綱貴である。

ちなみに写真で見て分かるようにかなり苔むしています。
鳥居や足下も落ち葉が掃除されておらず、一寸怖さを感じました(蛇か何か潜んでいるかと思いまして 汗)
(注)2005年訪問時には綺麗に掃除されていました。定期的に高野山の方が落ち葉掃除されているそうです。

<追記>
島津家では室町末期以降、遺骨を高野山に奉納する慣例が出来たようで、慶長15年頃に島津義久、寛永10年に島津亀寿(島津義久の三女・島津家久正室)、寛永17年に島津家久が「お骨上り」と称して遺骨を安置されている。『薩藩旧記雑録』には年度の記録がないが、島津義弘も「お骨上り」して高野山に遺骨が奉納されている。
※義久・義弘の墓は2005年訪問時に場所が判明しました。くわしくはこちら

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