島津忠将女(入来院重豊室)

天文13(1544)年甲辰〜天正19(1591)年辛卯5月8日<享年48歳>

<略歴>
島津貴久の同母弟・忠将の長女。入来院重豊の妻となるが男子に恵まれず、甥の重時(島津以久次男)を婿養子として入来院氏を相続させた。
入来院氏と島津氏は政略結婚と対立を繰り返してきた複雑な関係にあり、最終的には彼女が跡継ぎとなる男子を産まなかったことが原因で、入来院氏は島津家に乗っ取られてしまう形となった。

<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
天文13甲辰 1544 誕生 父・島津忠将、母・佐多忠成女 「諸氏系譜」忠将 忠将長女
「諸氏系譜」忠興 忠将長女
「旧記雑録」前編2−2463
(年度不明) 入来院重豊と結婚 「諸氏系譜」忠将 忠将長女
「諸氏系譜」忠興 忠将長女
(年度不明) 女子(入来院重時先室)を出産 「諸氏系譜」忠将 忠将長女
(年度不明) 弟・島津以久の次男(後の入来院重時)を婿養子とする 「旧記雑録」諸氏系譜3忠将「忠将」
「本藩人物志」入来院重時
天正11
8月5日
1582 40 夫・入来院重豊死去 「本藩人物志」入来院重豊
天正19辛卯
5月8日
1591 48 死去(場所不明) 法号「英忠節心」 「諸氏系譜」忠将 忠将長女
法号別伝「節山英忠大姉」 「諸氏系譜」忠興 忠将長女
慶長2年 1597 重時と入来院重豊女が不和のため離婚
重時は島津義久の許可を得て、島津歳久長女と再婚する
「本藩人物志」入来院重時
「諸氏系譜」歳久 歳久長女

「本藩人物志」では”重豊は広瀬大明神として崇められた”と書いてあるところを見ると、何か不審なことがあって祟った、と人々には思われていたようである。重豊は疑惑のある死に方をしたのだろうか?


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