崎山盛秀女(島津家久側室)

生没年未詳

<略歴>
島津家久との間に寛永2年に十女、寛永6年に十三男、寛永八年に十四女、寛永十年に十六女、寛永十一年に十七女、寛永十二年に十五男、寛永十三年に十八女、計男子二人女子五人を産む。子供の人数から推測するに鎌田政重女に次ぐ寵愛を得ていた側室と思われる。が、2人を除いて全員出産直後に死んでいるのはやはり父である家久が高齢過ぎて何らかの問題があったのだろうか。十三男は江戸で産んでいるところから、おそらく江戸在住の側室だったのではと推測される。少なくとも万治2(1659)年までは健在だったと思われる。
崎山氏は系統不明(『「さつま」の姓氏』)。父・崎山八右衛門盛秀は島津家の家臣の1人とされる(「旧記雑録」後編)
このHPの採取方針から外れるが、島津家久側室と言うことで特別に記載。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
寛永2己丑
11月16日
1625 家久の十女を出産
しかしすぐに夭折
「島津氏正統系図」家久
寛永6己巳
5月14日
1629 家久の十三男(伊勢貞昌養子・後の伊勢貞昭)を出産 「島津氏正統系図」家久
江戸で家老・伊勢貞昌立ち会いの元出産し、
男子なら伊勢家に養子に出されることが決定していた
「旧記雑録」後編
寛永8辛未
1月6日
1631 家久の十二女を出産
しかしすぐに夭折
「島津氏正統系図」家久
寛永10癸酉
3月12日
1633 家久の十四女を出産
しかしすぐに夭折
「島津氏正統系図」家久
寛永11甲戌
2月24日
1634 家久の十五女を出産
しかしすぐに夭折
「島津氏正統系図」家久
寛永12乙亥
9月
1635 家久の十五男を出産
しかしすぐに夭折
「島津氏正統系図」家久
寛永13丙子
10月18日
1636 家久の十六女(後島津図書頭久竹妻)を出産
島津家久最後の子供となった
「島津氏正統系図」家久
万治2 1659 この頃までに化粧料200石を賜る 「旧記雑録」追録1 859「鹿府万治高帳」

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