大野忠宗女(大野忠高(樺山久高)室 後離婚 大野妙春)

生年未詳〜寛永15(1638)年5月23日<享年76歳>

<略歴>
天正〜寛永頃の女性。大野忠宗の娘で、忠宗に男子がいなかったために樺山忠助次男(母は村田経定女)を婿養子とした。ところが、天正19年に父・忠宗が誅殺されたために離婚に追い込まれた。その後、父の罪のために京、薩摩川辺と居所を転々とする。
その後慶長10年、島津朝久女(母は島津御屋地)が松平定行と結婚するために上洛する際、再三固辞したにもかかわらず、島津義弘の推挙により朝久女付きの女中となり、遠江掛川に転居。ちなみに推挙の理由は「長年京に居住し、上方の風俗に詳しかったため」という(「本藩人物志」)。帰国後、その功績により200石を賜った。この時に忠宗女は家久に懇願して大野家の再興を約束させ、三原重饒の次男を養子として大野家を再興したという。
「本藩人物志」の記述に依れば、父の死後は出家して「妙春」と名乗っていた模様。
大野家は薩州家の分家。大野忠宗は川辺に2297石の領地をもつ大身であり、島津義久の家臣として活躍したが、天正19年に誅殺された理由は不明である。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
永禄8 1565 誕生 父・大野忠宗 母不明 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「本藩人物志」女子伝 大野氏女
(年度不明) 樺山忠助の次男を婿養子とする
樺山忠助次男「大野忠高」と改名
「諸氏系譜」樺山氏 久高
「本藩人物志」樺山久高、大野忠高
(年度不明) 長女(後 本田親昌室)を産む 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「諸氏系譜」樺山氏 久高長女
(年度不明) 次女(後 島津常久室)を産む 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「諸氏系譜」樺山氏 久高次女
天正19
4月27日
1591 30 父・忠宗が川辺堂尾(宝福寺門前市ノ瀬)にて誅殺される 「本藩人物志」大野忠宗 樺山久高
天正19 父・忠宗の死を理由として大野忠高と離婚する
このため大野家断絶
「諸氏系譜」樺山氏 久高
「本藩人物志」女子伝 大野氏女、樺山久高
天正19〜
文禄4頃
1591
〜1595
30
〜34
薩摩にいられなくなり、上洛する 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「本藩人物志」女子伝 大野氏女
文禄4頃〜
慶長2頃
1595
〜1597
34
〜36
京より帰国、川辺に居を移す 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「本藩人物志」女子伝 大野氏女
慶長10
1605 44 島津朝久次女が人質として上洛
島津義弘の推挙により御局役として供奉する
「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「本藩人物志」女子伝 大野氏女
慶長10 島津朝久次女が松平定行と結婚
この後掛川に転居か?
「旧記雑録」後編4−91
「寛政重修諸家譜」松平(元久松)定行
慶長12年〜 1607〜 46 掛川を辞し、薩摩に帰国 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春
「本藩人物志」女子伝 大野氏女
(年度不明) 朝久女に使えた功績により、島津家久より200石を賜る
この200石を元に大野家を再興する許可を賜る
「本藩人物志」女子伝 大野氏女
(年度不明) 三原重饒の次男を養子とし、大野家を再興する 「本藩人物志」女子伝 大野氏女
寛永15
5月23日
1638 76 死去 法号「俊玉妙春大姉」 「諸氏系譜」大野氏 忠宗女子妙春

「諸氏系譜」樺山氏久高では「母大野忠宗女」と記さず「母大野駿河守忠綱女」としている。しかし、大野忠宗も駿河守であったことから、大野忠宗と大野忠綱は同一人物と考えられる。しかし、「諸氏系譜」薩州用久では、大野忠綱は大野忠宗の曾祖父として記載されている。

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