系図(島津氏<佐志島津家>)

<概説>
佐志島津家は島津義弘の五男・島津忠清(ちなみに薩州家の島津忠清とは同時代人だが全くの別人)を初代とする島津家の分家である。但し、佐志島津家の成立には複雑な背景があった。
島津義弘の末娘に島津御下という女性がいたが、最初の夫・伊集院忠真は実兄の島津忠恒(家久)に暗殺され、更に娘・伊集院千鶴と共に江戸に人質に出され、更にその娘も政略のために松平定行の後妻とするという苦難の生涯を送っていた。その代償として忠恒(家久)は三千石の領地を無公役で御下に与えた。
帰国後に御下は宮之城島津家当主・島津久元と再婚し、島津久近を産む。が、久近は15才という若さで夭折したために御下領三千石をどうするかという問題が持ち上がった。忠恒(家久)は久元の嫡男・島津久通(母は久元先室・新納忠増女)に三千石を継ぐよう命じたが、久通は「忠恒(家久)の息子に継がせるように」と言上した。結局、忠恒(家久)の孫・島津久峯が御下の死後に三千石とその遺臣を継いで設立したのが佐志島津家である。その後、島津光久の命により「本家の三男の家」に当たる家格を与えられたため、系図の上では初代を島津忠清、2代目を島津久近とした。が、以上の経緯から見て分かるように、実際の初代は島津御下である。
家格の高さから、代々の当主には家老になった者が多い。しかし、明治維新の後に家禄を返上したこともあり華族には列せられることがなかった。


参考文献
『宮之城町史』(宮之城町)

<系図>

(系図参考文献)
『宮之城町史』(宮之城町)


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