系図(島津家<伊作家>)
<概説>
伊作家は島津本宗家である奥州家の分家である。本宗家4代島津忠宗の弟・久長に始まる。室町初期の当主(3代目)・親忠の頃から所領の伊作(現・鹿児島県吹上町)を苗字として名乗るようになる。
ところが7代目・犬安丸が長禄2年(1458年)12月4日に16歳で早世し、伊作家はいったん途絶える。その犬安丸の死後に本宗家から犬安丸妹の婿養子となって伊作家にはいってきたのが島津久逸である。
この久逸というのはなかなかの人物(というか曲者)であった。彼は本宗家の命により旧領の伊作から日向国櫛間院(現・宮崎県串間市)に入った。が、そこで有力分家の新納氏と対立し、日向の戦国大名・伊東氏と組んで本宗家に刃向かうなどしたために、後に本領である伊作に連れ戻される。久逸は息子・善久の頓死後再び伊作家を差配するが、島津家の内乱に関わり戦死。その後名目上は善久の息子・菊三郎(後の島津忠良)が跡を継ぐが、幼少のため実際の差配は母の新納是久女(常磐)が行っていたと推測される。
「旧記雑録」前編によると、相州家の当主・島津運久が未亡人・常磐の美貌に目を付け都度都度求婚したが、運久には正妻がいたのでそれを理由に常盤は求婚を拒絶した。ところがその話を聞いた運久は正妻を言葉巧みに騙して焼殺した上でまた常磐に求婚してきた。運久のとんでもない性格におそれをなした常磐は伊作家の家臣と相談の上、運久にいまだ実子がないのに目を付け、「菊三郎を相州家の跡継ぎにすること」と言うことを条件として運久と再婚した、という。実際の所は実質当主不在の伊作家の領地を運久が狙い、一方常磐は息子・菊三郎の将来を考え、より本宗家に血統の近い相州家の後継者を狙った物と考えられるだろう。
ともかくこうして伊作家と相州家はその後合流することとなった。そのために島津伊作家の名跡は途絶えてしまったが、その後島津本宗家となり最も栄えた家系となった。後を継いだ島津忠良以降の動きについては相州家の項を参照されたい。
参考文献
『薩摩島津氏』三木靖(戦国史叢書10 新人物往来社)
「島津氏」三木靖(『日本の名族』12 新人物往来社)
「島津氏」三木靖(『戦国大名閨閥事典』3 新人物往来社)
<系図>
(系図参照文献)
・「諸氏系譜」伊作氏(『鹿児島県史料』旧記雑録拾遺 諸氏系譜三 伊作氏)