高野山と島津。(徳川秀忠夫人供養塔(一番墓))

奥の院の奥近く、参道の横を入ったところの高台にあります。
木製の立て看板が参道に立っているので、分かりやすいかと思います。
但し、参道はぬかるんでおり、石段も割れてかなり危険な状態でした。ハイヒールの方は近づくことはおそらく不可能です。

(2005/11/10撮影)
高台の奥にそびえる巨大な五輪塔。
「崇源院」こと徳川秀忠正室であったお江与(小督)の方の供養墓で、秀忠とお江与の方の次男であった徳川忠長によって築かれた。この奥の院で一番大きな墓であり「一番墓」と呼称されている。
忠長は次男でありながら、お江与の方の愛情を一身に受け、一時期は次期将軍候補に推されていた。しかしお江与の方死後に兄の徳川家光との対立が激化し、その後自害に追い込まれている。

この隣りに千姫の供養墓があると言うことですが、見逃してしまいました。ちなみに千姫は秀忠とお江与の方の間に生まれた長女。


ちなみに徳川忠長は幼少時に島津家久(忠恒)が養子に希望していたことのある人物。もちろんけんもほろろに断られるが、実はその時に家康側近・本多正信が言った
「養子を希望する暇があるなら側室でも抱えられては如何かな」
…という一言の方を島津家久は狙っていたらしい。この言葉を将軍の言質として、家久は後に正室の亀寿(島津義久三女)を追いだして側室をわんさか抱えるのだ。
このあたりの事情は「家久公御養子御一件」(『鹿児島県史料集』)に詳しい。


この墓石は和歌山県の史跡に指定されている。

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