高野山と島津。(飫肥藩・伊東家墓所)

日向国飫肥藩・伊東家墓所(2004/12/14撮影)
※写真上で「→」が「手」に変わるところはその墓石の拡大写真があります


高さ2m強の五輪塔が集まっている集合墓です。正面の五輪の塔の前に右4つ、左4つのほぼ同じ大きさの五輪の塔が整然と並んでいます。場所は島津家四番墓の近くです。この墓所の方がやや弘法大師廟寄りにあります。
2005年再訪時に墓石の碑文を確認しましたが、おそらく江戸時代の藩主9名の墓石と思われます。


伊東家は島津家と匹敵する歴史を誇る一族で、その祖先は「曾我兄弟」の説話に出てくる工藤祐経である。元々伊豆の伊東を領していた鎌倉武士であったが後に領地のある日向国に下向。最盛期は戦国後期で、その時の当主・伊東義祐は日向国一円を勢力下に納め、一時は島津氏を圧倒、大隅・薩摩を制しようとするほどの勢いがあった。しかし、「京かぶれ」に陥り散財をしたことなどから次第に一族や国人の離反を招き、元亀3年(1572年)木崎原の戦いで島津義弘(当時忠平)率いる350人ほどの兵に伊東軍3000人が敗れ去るという大敗を喫したことをきっかけに支配体制は崩壊、1576年(天正5年)には城を捨てて一族数十人で逃亡する羽目となった。
その後、義祐三男・祐兵が豊臣秀吉に仕え、1587年(天正16年)「九州御同座」で豊臣秀長軍の先鋒を勤めた功績により旧領の飫肥に戻ることが出来た。しかし、この時の領地の配分で島津氏と伊東氏の間に、豊臣秀長や石田三成も巻き込み激しい工作合戦があったため、両家の確執は更に深まった。1599年(慶長4年)の庄内の乱時には伊東氏は島津忠恒(後・家久)と敵対した伊集院忠真に肩入れし、1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦時には在国の伊東氏家臣・稲津掃部が島津豊久の居城・佐土原を攻めるなどしている。江戸時代には参勤交代でかち合わないように徳川幕府がお触れを出すくらいの険悪な仲となり、なんと幕末にも薩摩藩から飫肥藩当てに動向を問う書状が送られるくらいの不仲であった。
(主に『宮崎県の歴史』(山川出版社)を参照いたしました。)

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