高野山と島津。(紀州徳川家墓所)

高野山は紀伊国にある、ということは江戸時代は紀州徳川家の庇護下に置かれていたわけです。
高野山内にも紀州徳川家の墓所が散在しています。

 紀州徳川2代、3代、4代藩主の墓

これは実は裏側から取った物です(失礼!)

場所は武田信玄・勝頼墓の近く。
左側(手前の大きな墓石と木で隠れている物)が2代光貞(徳川吉宗の父)墓、真ん中が3代綱教、右側が4代頼職(3代と4代は吉宗の兄)のもの。
4代の頼職は綱教、光貞に引き続いて亡くなり、江戸から和歌山への帰国途上でのあまりの急な死去だったので藩内の吉宗派家臣による暗殺説がささやかれている。

奥の院では珍しく五輪塔ではなく板碑型(いわゆる一般的な墓石の形)が特徴で、大きさも余り大きくない。

 紀州徳川初代・徳川頼宣墓
※クリックするとやや大きめの写真が別ウィンドウで表示されます

ちなみに向かって右隣にあるのが平安時代の清和源氏の武将・多田満仲の墓とされ、こっちの方が大きくて看板も立派_| ̄|○
左側にある立派な石柵に囲まれたのが徳川頼宣の墓だが、柵の立派さに対して墓石は非常に小さく50cm程度しかない。手前に立っている灯籠より小さい。その灯籠の後ろにある四角い石が頼宣の墓である。形は息子・光貞等と同じ板碑型である。

徳川頼宣は戦国の遺風を守った最後の大名と言ってもおかしくない人物で、由井正雪の乱の黒幕と言われた陰謀家でもあった。
場所は武田信玄・勝頼墓よりやや一の橋側にある。

奥の院には他に中の橋近くに紀州徳川家歴代正室の墓、また7代藩主・徳川宗将の墓が徳川頼貞墓と武田信玄墓の中間ぐらいにある。こちらも紀州徳川家という大藩らしからぬ小さな物である。

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