島津久意(実久)女(祁答院義重室)

生年未詳〜永禄9(1566)年1月15日

<略歴>
薩州家・島津実久(久意)の次女で、薩摩北部の有力国人・祁答院義重(良重)と結婚した。同様、島津氏へ対抗する北薩連合の結束を固める政略結婚と考えられる。
しかしその後浮気や遊興などで荒れた生活を送る義重と対立するようになり、遂に思いあまって夫を自ら暗殺した。直後に義重の小姓に復讐されて彼女も殺害され、祁答院氏は唯一残っていた男子が既に出家していたため滅亡してしまった。

祁答院氏の所領はその後入来院重嗣の統治下に入った。これを考え合わせると、この衝撃的な事件の背景には入来院氏の示唆があったのではないかとも考えられるが、推測の範囲を出ない。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・島津実久(久意) 母不明 「諸氏系譜」薩州用久 久意次女
(年度不明) 祁答院義重に嫁ぐ 「諸氏系譜」薩州用久 久意次女
永禄9
1月15日
1566 狩りからかえってきたところの夫・義重を自ら暗殺する(義重享年41)
暗殺直後、義重のお付き小姓であった村尾亀三に屏風で押さえつけられた上、その上から刺されて殺害される
「本藩人物志」国賊伝 祁答院良重

後に村尾源左衛門重候と改名したという(「本藩人物志」国賊伝 祁答院良重)。ちなみにこの後島津忠平(後の島津義弘)に召し抱えられ、庄内の乱、伊集院忠真暗殺、琉球出兵に関わり活躍している。ちなみに村尾氏は入来院宗家5代当主・重勝の妾腹の長男・重宗の末裔という(「本藩人物志」村尾源左衛門尉重候)。

表紙に戻る 人名索引へ戻る 人名索引「し」に戻る