相良亀徳(島津義弘(忠平)室 後 上村長陸室)

生年未詳〜元和3(1617)年10月<享年不明>

<略歴>
相良晴広の娘。しかし”相良義陽の妹”としてよく知られる。義陽とは異母兄弟。
島津忠平(後の島津義弘)と結婚し、飯野(現宮崎県えびの市)に輿入れしたが、程なく離婚した(「加治木物語」「南藤蔓綿録」)。永禄12(1569)年には忠平の父である島津貴久が肥後攻めを開始しており、実家と婚家の不和が原因と思われる。帰国後は奥野地頭・上村長陸と再婚して2児に恵まれた。が、長陸は慶長年間に相良家に対する謀反の罪で殺害、後に夫の菩提を弔うために尼となり下原に住した。しかし、家老の犬童(相良)頼兄と不仲だったために相良家の姫でありながら援助を受けられず貧困の中で没したという、不幸な生涯であった。のちに祟りを及ぼしたために犬童頼安の息子・相良頼章(母は島津家久三女)が草むらの中から墓を探し出し供養塔を建てたという(「南藤蔓綿録」)。
「加治木物語」では実家と婚家との不和から幽閉されて発狂死したと書かれているが、相良家側の史料「南藤蔓綿録」では彼女のその後が書かれているので「加治木物語」の記述は疑わしい。あまりにも不幸な彼女の生涯への同情から、巷間では実体からかけ離れた脚色がされたと思われる。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・相良晴広、母・側室恒松氏(御東殿) 「南藤蔓綿録」巻之五巻頭系図
(年度不明
永禄7〜永禄11年頃)
1564〜1568 成人後、島津忠平(後の島津義弘)の居城である飯野城に嫁ぐ 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明
〜永禄11年)
〜1568 島津忠平と離縁 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明) 相良家家臣・上村長陸と再婚 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明) 長女・鶴満(後・那須重康室)を出産 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明) 長男・鶴松を出産 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
慶長年間 1596〜1615 夫・上村長陸が相良家に逆心有りとして、中原城で殺害される 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明) 息子・鶴松と共に七地窪に移住する 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明) 市房に参詣中、鶴松夭折(享年14,15才) 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
(年度不明) 原城下原に移住する 「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条
元和3
10月前
1617 死去 法名「西津良意」
餓死であったと言われる
永国寺南陽軒(現熊本県人吉市)に葬られる
「南藤蔓綿録」巻之十 元和三年十月前条

上村氏は相良家庶流。戦国末期に13代上村頼興(本宗家12代相良為続の孫)が相良本宗家の家督争いに介入、息子・晴広を本宗家17代として発言力を高める。しかし、上村家の突出ぶりは次第に他の相良家家臣から恐れられるようになり、14代上村頼孝の代に本宗家18代・相良義陽に攻められ永禄10(1567)年に滅亡。長陸はその頼孝の次男で、永禄10年時には子供だったために一命を助けられたが、日向に逃れていた親族と共闘して謀反をたくらんだとして相良長毎の命で殺害された(「南藤蔓綿録」)。慶長年間に至って殺害された背景には本宗家との確執を解消できなかったことが考えられる。

上村氏略系図

      (相良本宗家)
相良長頼┬頼親…為続┬長毎―義滋=晴広―義陽―長毎―頼房…(以下略)
      |       └頼廉       ↑
      |(上村家)   ↓        |
      └頼村…………頼廉―頼興┬晴広
                        ├頼孝┬頼辰―満寿丸
                        ├頼賢├長陸┬鶴満
                        └長蔵└利行└鶴松

  上村家についてはこのHPを参照いたしました。ありがとうございました。→球磨の部屋

那須重康は相良義陽の死後斜陽傾向にあった相良氏を支えたことで家臣に取り立てられたと言う人物。その後自宅を賭博場にしていたことがばれ、妻子を道連れに自殺したという(「南藤蔓綿録」)。


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