新納武久女(樺山規久室)

生没年未詳

<略歴>
天正〜慶長頃の人。新納本家当主・新納武久の娘で、樺山家の後継者・規久の正室となり2男1女を産む。
しかし、この時の島津家は豊臣秀吉に屈し多難な時期であり、彼女の産んだ2男は人質に出されたりして夭折、夫の規久も朝鮮で客死した。その後の詳細な消息は不明。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 誕生 父・新納武久 母不明(大野忠元女か?) 「旧記雑録」諸氏系譜1 新納氏
(年度不明) 樺山規久と結婚 「旧記雑録」諸氏系譜1 新納氏
「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「規久」
天正8頃 1580 長男・鶴丸出産 「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「規久」
天正9 1581 次男・忠征出産 「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「規久」
(年度不明) 長女(後・桂民部少輔室)出産 「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「規久」
天正15頃 1587 長男・鶴丸が人質となるため上洛途中、豊後国丹生島で病死(享年8歳) 「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「規久」
文禄2癸巳
8月12日
1593 夫・規久が朝鮮唐島で死去(享年37歳) 「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「規久」
慶長4己亥
6月7日
1599 次男・忠征が京・伏見で病死(享年19歳) 「旧記雑録」諸氏系譜1 樺山氏「忠征」
(年度不明) 死去 法号「月室妙秋大姉」 「旧記雑録」家分け 樺山文書402「満福寺墓碑銘注文」

「旧記雑録」家分け 樺山文書402「満福寺墓碑銘注文」では「桂山城守内室」とある。
「本藩人物志」桂忠秀、桂久盛によると桂忠秀が民部少輔、息子の久盛が山城守を名乗っており、桂久盛の母を樺山規久女としている。
以上から考えて、「満福寺墓碑銘注文」は父と息子を混同してしまった物と思われる。

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