小侍従(島津義久側室? 後 木脇祐光室)

生没年未詳

<略歴>
天文〜永禄頃の女性。木脇祐光の次男で鮫島宗儔養子となった鮫島宗堯を産んだ。出身氏族などの詳細不明。夫となった木脇祐光は日向国の戦国大名・伊東氏の分家出身で、島津義弘に仕えていた武将。鮫島宗儔は天正11年10月25日に肥後国八代で戦死した武将で、宗儔の父・鮫島宗繁は加世田衆(島津忠良配下)、後に島津忠平(=義弘)の使者などで活躍した人物という(「本藩人物志」)
「本藩人物志」鮫島大蔵宗堯条によると「(木脇)祐光妻有川飛騨守女早ク死ス故ニ 義久公御側へ被召仕候小侍従懐妊イタシ居候ヲ祐光ニ被下候テ七月目ニ宗堯ヲ生ズ(以下略)」とあり、島津義久のご落胤を産んだ女性とされている。但し、島津義久には男子が無かったため後に家督相続問題が起きていること、婚家の木脇祐光や息子の養子先の鮫島宗繁が義久ではなく義弘に近従しており義久ご落胤の預け先としては不適当と思われること、「本藩人物志」木脇若狭守祐光条では祐光次男は木脇祐元となっていること、などを考えると、この話には疑問がある。ちなみにこのエピソードは「諸家大概」鮫島氏の項では全くふれられていない。永禄12年には後室・種子島時尭女も健在であり、前年に祖父・島津忠良が死去したばかりのため外聞をはばかった物であろうか。後考を期す。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
永禄12 1569 鮫島大蔵宗堯を産む 「本藩人物志」鮫島宗堯

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