系図(土佐一条氏<一条家>)

<概説>
一般的に「土佐一条氏」と言われる土佐国の戦国大名・一条家は、飛騨国の「姉小路氏」、伊勢国の「北畠氏」と並んで「三国司家」といわれるが、他の2家が早くから地元に土着していたのに対し、もとは摂関家の一つであり、応仁の乱で領国に下向したという異色の戦国大名である。

応仁の乱の頃の摂政・一条兼良は戦乱を避けるため、又、荘園からの収入の確保のために、一条家の荘園の一つがあった土佐国幡多(現・高知県四万十市中村)に長男・教房一家を下向させる。いくつかあった荘園の中で土佐国を選んだのは、意外にもここが堺→阿波国→土佐国→薩摩・大隅国→琉球…という、遣明貿易の拠点港の一つだったからと考えられている。

その後、一条氏の荘園の一つである摂津国福原荘(現・神戸市兵庫区)に下向した政房(教房長男)が地元の国人に虐殺されると言う悲劇もあったが、土佐国に下向した教房一家の方は、公家の力を利用し地元国人に官位をばらまいたこともあり、何とか無事に下向を成功させることが出来た。しかし、跡継ぎである政房が横死したために、教房は異母弟(兼良の末息子)であった冬房を猶子としたのである。このままいけば冬房が一条家の跡継ぎとなり、土佐や摂津の荘園を相続するはずであった。ところが、教房54歳の時に土佐の国人・加久見氏の娘との間に房家が誕生する。房家は当初一条家の慣例に従い僧侶となる予定であったが、地元・土佐の国人がそれに対して猛反対したらしく、結局、冬房が一条家の家督を継ぎ、房家が土佐の荘園を相続することとなった。ここに公家大名「土佐一条氏」が成立したのである。
房家は長宗我部国親(長宗我部元親の祖父)をかくまい、土佐の国人・津野氏の攻撃を撃退するなど、公家としての名望と共に武力でも実力を発揮し、土佐国の戦国大名として成長していく。一方、一条家の家督を継いだ冬房は男子が早世し、世継ぎが無くなったために、房家の三男・房通が冬房の婿養子として一条家の家督を継ぐこととなる。ここに房家は「関白の父」となったのである。そのため、ほとんど京にいられなかったにも関わらず、最後は正二位という高位に上っている。
房家の後は長男・房冬が嗣いだが、房家の後を追うように2年後になくなったために余り事績は残していない。しかし、父の威光もあってか、正室に伏見宮邦高親王の娘・玉姫、側室に当時中国地方一の戦国大名であった大内義興の娘を迎えるなど、房冬の時に土佐一条氏はもっとも勢力を拡大する。

房冬の跡を継いだのが房冬と玉姫の間に生まれた房基であるが、跡を継いで7年しかたたない1549年(天文18年)に急死してしまう。これは周囲の国人との抗争に疲れ果てた末の自殺であったとも言われている。このころにはかつて救出した長宗我部国親の孫・元親に所領を浸食されるなど土佐一条氏には徐々に衰亡の兆しが差し始める。
急死した房基の跡はわずか7歳の長男・兼定が嗣いだ。しかし国人の興亡が激化したこの時期に7歳の当主で領地が守れるはずが無く、次第に一条氏は長宗我部氏の攻勢を押さえられなくなってくるのである。それでもまだ名家・一条家の威光は絶大であり、妹の一人は土佐の有力国人である安芸国虎に嫁ぎ、もう一人の妹は海を隔てた日向国の戦国大名・伊東義祐の長男・義益に嫁いでいる。自身も当初は伊予の有力国人・宇都宮豊綱の娘を正室として一男一女を儲けたが、劣勢となった一条家の活路を伊予に求めた兼定は伊予国への侵攻を決意、宇都宮氏女を離縁して、大友宗麟の次女を後室とするのである。これが災いし、この後の土佐一条氏は東からは長宗我部氏、北からは伊予の国人たちの猛攻撃を受けることとなる。
一方、この兼定の行動を苦々しく思っていた人物がいた。それは兼定の近親である京の一条本家の当主・内基である。一条兼定の行動は戦国大名としては当然の物であったが、公家の一員としては当時としても認められる物ではなかった。兼定の武力行動による摂関家・一条家の家格失墜を憂えた内基は、ついに土佐国に下向する。このとき内基は土佐国の政治に介入、兼定の官位を上げる一方で実際の政務を執らないよう出家隠居させ、一方で長宗我部元親を土佐一条家の家老同然として実質的に土佐国一円の支配を認めたものと考えられている。
このような名誉はあっても中身の伴わない扱いは兼定にとっては耐え難い物であり、兼定は義兄・大友宗麟を頼って豊後に逃亡、1575年、四万十川の戦いで長宗我部氏と戦い領土回復を目指すが、大敗する。その後、兼定は宗麟の娘とも離婚、瀬戸内海の戸島という小島での不自由な生活を強いられる。更にこの地でかつての家臣であった入江某に暗殺されかけ、片腕を失うという悲劇に遭う(ちなみに野澤隆一氏はこの事件には一条家の縁戚である伊予西園寺氏や五辻氏、東小路氏も関わっていたと推測する)。その中で豊後時代に影響を受けたキリスト教の洗礼を受け「ドン・パウロ」と名乗るが1585年についに土佐国に帰れぬまま生涯を終えた。
一方、長宗我部元親は兼定の長男・内政を「大津御所」とし、名目上の当主として擁立するが、後に内政も長宗我部元親と対立、1580年(天正8年)に伊予国に逃亡しそこで元親に暗殺されたと伝わる。その後内政の遺児である政親が「久礼田御所」として長宗我部氏に擁立されるが、肝心の長宗我部氏が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に荷担し改易、その後土佐を去る。土佐を去ってからの政親の消息は京都の一条家側の史料にもなく、「系図纂要」に「大和国に去る云々」の記述がある程度で詳細不明であり、土佐一条氏は完全に滅亡した。

その後、一条兼定の娘(おそらく母は宇都宮豊綱女)は「按察使局」と名乗り、徳川秀忠正室・お江与の方に仕え、お江与の方死後は徳川家光、更に家綱に仕え1669年(寛文9年)に江戸で生涯を終えた。没年は不明だが、父・兼定と母の離婚年から逆算すると享年は105歳以上であったと思われる。驚異的な大往生であった。
また、兼定の妹で伊東義益に嫁いだ阿喜多の方は、その後、伊東氏が島津氏に敗北し日向国を追放されると、舅・伊東義祐らと共に隣国の豊後国・大友宗麟を頼って逃亡する。これは阿喜多の方の母が大友宗麟の姉であった縁を頼った物であった。これが後の耳川の戦い(高城川の戦い)のきっかけとなる。そしてこの戦いで大友氏は島津氏に大敗し、大友氏滅亡の遠因となってしまうのである。このため伊東義祐らは大友氏の元を去り、伊予国、更に摂津国へと逃亡することになるのだが、阿喜多の方と伊東義益遺児である2人の息子は大友氏の元に留まった。かつて伊予国の国人と一条家が対立したことも背景にあったと思われる。天正9年まではイエズス会の文献で「宗麟に次ぐ熱心な信者」として名前が見え消息は明らかだが、その後伊東氏側の史料にも、大友氏側の史料にも全く名前が見えなくなり、阿喜多の方の行方は不明になってしまう。
もう一人の妹である安芸国虎の妻・峰子は、1569年(永禄12年)に国虎が長宗我部元親に滅ぼされたときに実家の一条家を頼り逃亡するが、その後の消息は不明である。
一方、島津義久の家老である鎌田政近の妻の一人は「土佐一条氏女」と伝わる。彼女は早世した娘と、後に頴娃氏の後嗣となった頴娃久政を産んだ。年代から見て一条房基の娘のうちの誰かと思われるが、鎌田氏・頴娃氏側の史料が乏しく、これ以上のことは不明である。

参考文献
『土佐一条家年表』小松泰(朝倉慶景編)
「応仁の乱と一条家」(『中村市史』第五章)
「天正初期の土佐一条家」上・中 朝倉慶景(『土佐史談』166,167号)

<系図>

(系図参考文献)
「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』)
『土佐一条家年表』
「伊東氏」(『戦国大名閨閥辞典』下 新人物往来社)


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