北郷忠相女(伊東祐元<祐光?祐充?>室、中門)
生没年未詳
<略歴>
大永〜天文頃の女性。北郷本家8代・忠相の長女で「中門」※と名乗った。中門の語源不明。伊東祐元成る武将に嫁いだが離婚し、娘を連れて実家に戻った。離婚の時期や事情は不明だが、北郷家と伊東家は天文元年に三股院高城を巡って対立したためにこの頃に離婚したと思われる。しかし、「日向記」では伊東氏に嫁いで一女を儲けた後、早世したような書かれ方もされている(「日向記」4−5「求麻逆乱加勢事」)。
ところで「伊東祐元」と言う武将は伊東氏の系図に見あたらない。おそらく字の類似性から伊東義祐の兄である伊東祐充(祐光)であると思われる。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
(年度不明) | 誕生。父・北郷忠相 母・不明 | 「諸氏系譜」北郷氏 忠相長女 | ||
大永4 5月5日 |
1524 | 伊東氏と北郷家の和睦が成立し三俣野々美谷城を伊東家に引き渡し、北郷忠相の娘を伊東祐充と結婚させることになる | 「日向記」4−3 | |
大永4 8月25日 |
都城を出立、その晩は和田高城の稲津民部大輔宅に宿泊 | 「日向記」4−3 | ||
大永4 8月26日 |
田野仮屋にて宿泊 | 「日向記」4−3 | ||
大永4 8月27日 |
荒武、安木、佐野に到着 | 「日向記」4−3 | ||
大永4 8月29日 |
伊東祐元(祐充?)※と結婚 拭戸※の上の屋形に輿入れする |
「諸氏系譜」北郷氏 忠相長女 「日向記」4−3 |
||
(年度不明 天文元以前) |
〜1532 | 伊東祐元と離婚、娘を連れて実家に戻る | 「諸氏系譜」北郷氏 忠相長女 |
※「日向記」4−5「求万逆乱加勢事」によると
「祐充公ハ北郷殿ノ御婿ト成玉ヒ女子1人アリ、祐清(=後の伊東義祐)ニ御契約、祐充公ノ御前御早世ノ後又北郷殿ノ婿ト成玉フ、此腹ニモ女子一人ヲワシマス、御チウモント申後ニハ庄内ニ住シ玉フ也」
とあり、中門は「伊東祐充の2番目の妻である北郷家の女性」か「伊東祐充と北郷家の別の女性との間に生まれた娘」のように書かれている。
このあたりの記述は北郷家側史料と伊東氏側史料にかなり食い違いがある。伊東祐元女の項で双方の史料を比較しているので参照されたい。
※伊東祐光(祐充、1510〜1533)は伊東尹祐の次男。尹祐には側室中村氏との間に長男がいたが、次の側室・福永氏との間に祐光が生まれると祐光を嫡男とし、中村氏の産んだ長男を排斥しようとしたため、それをいさめようとする家老達が「綾の乱」を起こすなど混乱の元となった。祐光自身も庄内三股の戦いで北郷氏・北原氏の連合軍に敗れ、それに気落ちしたのか天文2年に早世してしまった。(「日向記」3−21「屋形炎上梶山知行事」22「長倉若州垂水丹州切腹事」、『地域別日本の名族(12)』「伊東氏」(新人物往来社)、『戦国大名閨閥事典』「伊東氏」(新人物往来社))
※「拭戸」では意味不明であり、「城戸」の誤字ではないかとされる。(「日向記」4−3「祐充公家督婚礼付犬追物事」)