関ヶ原(島津関連超限定)>ママチャリで行く島津の退き口 番外編その2

このページでは「もう一つの関ヶ原の合戦」をご紹介します。


−それは今から約1300年前(○。○)…の日本。

そこでも”天下分け目の戦い”が始まろうとしていました。
一方の極は大海人皇子。その時の天皇※1・天智天皇の実弟※2です。
もう一方の極は大友皇子。その時の天皇・天智天皇の長男です。

当HP訪問者は戦国時代フェチが多いと思われますので、天智天皇の後を嗣ぐのは長男の大友皇子で鉄板!…と思う方がほとんどだと思われます…が、1300年前の日本はそうではありませんでした。兄の後は弟が嗣ぐことの方が多かったのです。
 (例)敏達天皇→用明天皇(弟)→崇峻天皇(弟)
特に、天智天皇が即位する直前には「白村江の戦い」という大きな戦いに参加して破れ、その後、近江国大津(現在の滋賀県大津市)に遷都するという前代未聞の非常事態が続いていました。こんな状態ですから、豪族の中から天智天皇に反発する動きもあり、彼らが担ぎ出そうとしたのが大海人皇子でした。一方の天智天皇は長男の大友皇子に後を嗣がせようと思っていたようですが、大友皇子には重大な欠点がありました。母親の身分が低かったことです。江戸時代のように正室が子供を産むことが滅多になく身分のアヤシイ側室出生の子供が後を嗣ぐのが普通の時代からは考えにくいことですが、1300年前には母親の身分が低いことはそれだけで跡を嗣ぐのに決定的なマイナスポイントでした。

こういう状況の中で天智天皇は病に倒れ、その中で命の危険を感じた大海人皇子は「出家して兄・天智の病気回復を祈る」という理由を名目として吉野(現奈良県吉野)に移ります。

その後、天智天皇の病気は回復せず、後事を大友皇子と重臣達に託して亡くなります。672年1月7日のことでした。…その情報を察知した大海人皇子はとっとと吉野を脱走して、伊勢国経由で美濃国に向かいます。何で美濃国に向かったのかというと、大海人皇子の湯沐邑(養育のために宛われる私領)があったこと、そして美濃国にある東山道(後に中山道となる)を先に押さえて、大友皇子側が東国から兵を徴発するのを妨害するためだったというのが定説です。

そして、大海人皇子が陣取ったのが、この関ヶ原なのです。

大海人皇子と大友皇子の戦いは大海人皇子の勝利に終わり、大友皇子は自害します。この戦いは「壬申の乱」といわれるようになります。
そして勝利者の大海人皇子は、自分が陣取ったこの地に重要な3つの関所の内の一つを置いたのでした。その関所の名前は「不破関」と名付けられました。そして天皇崩御などの重大事件がある度にこれらの関は閉鎖されたのです(「固関(こげん)」という)。固関その物は平安時代には廃れますが、形式的には何と明治になるまで続いていました…。


※1:その時は「天皇」という称号はなかった+おそらく「大王」と言われていたが正解なのだが、「その時の大王・天智天皇」とするといろいろ補足説明するのが面倒なので”天皇”にしておくヾ(^^;)
※2:後世成立した史料を基に「大海人皇子は実は天智の兄だったんだよ!」という説が一時期流行りましたな。私はすなおに「天智兄大海人弟」説ですが、又それを説明するとそれだけでHPつくれるほど長く…めんどくさヾ(--;)


不破関は3つの関所(鈴鹿関、愛発関、不破関)の中で唯一発掘調査が完了して場所が分かっている関所です。現在跡地には資料館や石碑が建って整備されています。
案内の道しるべが建っています。「これより中山道」

これが建っていたのはこの辺り(powered by mapionbb)


井上神社…の参道を示す石碑
場所はここ
井上神社本体の場所はここ(但し今回は島津限定関ヶ原のため訪問せず) powered by mapionbb


井上神社は大海人皇子(天武天皇)が祭神となっている珍しい神社です。確か大海人皇子が祭神の神社はここしかなかったとか聞いたことがあります。
境内の様子はこちらのブログでちょっと拝見できます。

ちなみに大海人皇子の曾孫にあたる聖武天皇には3人の皇女がいました。一人が今のところ日本で唯一の女性皇太子から天皇となった阿部内親王(孝謙→称徳天皇)、そして姉の井上内親王と妹の不破内親王です。「井上」という名前が何を元にしたのかが現在残っている史料では不明なのですが、妹の「不破」というのがこの辺りの地名と同じ事を考えると、この神社と井上内親王は何らかの関係があるのかも知れません。
ちなみにこの近辺が不破関の東城門跡です。

東門跡から西に100mほどいったところに不破関の役所跡が発掘された場所と「大海人皇子の沓脱ぎ石」伝説のある岩が残っています。 場所はこの辺り powered by mapionbb

…が、道案内の看板が指し示す方向は…民家の駐車場( ゚ Д゚)
…不法侵入という犯罪は犯したくないので、さすがにいけませんでした… 勇気のある方のレポートはこちら 

そこから更に西に100mほどいくと不破関の関守宅跡になります。観光ガイドなどではここを「不破関跡」として紹介していることが多いです。 場所はこちら powered by mapionbb
「不破関跡」の石碑と説明がある建物。

一見由緒ありげな建物に見えますが、不破関とは無関係で、某宗教法人の建物のようです。

  
この辺りの地形ですが、西方向が急に落ちくぼんでいるのが分かります。つまり、西側から何かが押し寄せてきても、関所側は上から見下ろす体制で防御に適していたことが分かります。

この2差路の向かって右側にあるのが「不破関資料館」です。
不破関発掘中に出土した瓦や土器、また不破関の歴史を簡単に展示しています。大人1人¥100。15分もあればだいたい見られます。
不破関自体は延暦8年(789年)7月に突然廃止されてしまうのですが、先述したように、その後も皇室に関わる事件のあったときに形式的に「固関」の使者を派遣することは明治時代になるまで続きました。また、歌枕の舞台として時々注目される場所であったことが伺えます。
ちなみにこの建物の真横に「ピースプレイ不破の関」という謎の施設があります…。

なお、不破関の西の方には「常磐御前の墓」とか「弘文天皇(=大友皇子)の首塚」とかいろいろ妖しげな興味深い史跡がいっぱいあるそうですが、目的から外れるので行きませんでした…。

<<参考文献>>
壬申の乱―天皇誕生の神話と史実 (中公新書) 』遠山美都男(中公新書)

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