高野山と島津。(島津義久、義弘、重豪、斉興 他 の墓所について 詳細説明)

(1)鳥居
 
 天保10年3月29日に建てられた物です(鳥居の碑文による)。
 建立者は島津斉興、担当したのはあの調所広郷でした。ここからこの墓所がこの頃に修復されたと推定できます。

(2)島津重豪の墓
 墓域の向かって右側にある宝匡印塔です。
「天保○癸巳年 大信院殿○○○大居士 三月十日」 と正面に掘られています。(○は判読不明文字)
重豪の父・重年まで巨大な五輪塔だったのに対し、高さ1m強の宝匡印塔というのが意外です。この人、歴代島津当主の中で一番の無駄遣い王だったと思うんですが(^^;)


(3)島津斉興の墓
 島津重豪の墓の左隣にある宝匡印塔です。
(右側碑文)参議正四位下○○左近衛 中将薩隅日三国主琉球 ○領源朝臣斉興○○ 天保十年○○三月二十 九日預○○」
(正面碑文)金剛定院明覚亮忍大居士」
大きさは島津重豪のものとほぼ同じで1m強程度です。
この墓には斉興の没年が掘られていないことなどから見て、生前に作られた「逆修墓」ではないかと思われます。


それにしても重豪の息子で斉興の父である斉宣の墓はどこにあるんだろう…。

(4)石造三重塔
この墓域の中で一番大きな墓石で、高さは3m近くあると思われます。場所は正面左側、島津斉興墓の左隣です。
高野山の墓としては非常に珍しい形の三重塔です。碑文が無く誰の墓か不明ですが、鹿児島県霧島市国分の金剛寺跡にある島津義久の墓と同じ形式です。
石の新しさから見て、鳥居と同じ頃に再建された物ではないかと思われます。

(5)五輪塔
三重塔の左隣、この墓域の左奥にある高さ2m弱の五輪の塔です。
碑文が無く、誰の墓は不明です。

(6)古い宝匡印塔3基

墓域の向かって左側(五輪塔の前)に、明らかに古い宝匡印塔が3基列んでいます。真ん中が一番大きく、それでも1m70cm程度の高さ、両側に小さめの物が立っています。この墓域に昔からあった物と思われますが、碑文が摩耗して(元から掘られてない?)誰の墓かは不明です。


(7)灯籠
 
(左側)「貫明院殿 尊前」と掘られている(貫明院は島津義久の戒名)
(右側)「松齢院殿 尊前」と掘られている(松齢院は島津義弘の戒名)
墓域の前方に右側4基、左側4基の石灯籠が列んでいます。この灯籠の碑文でここが島津義久、義弘の墓であると判明しました。

(8)佐土原藩「松寿院」の墓

この墓域の向かって右側に高さ1m70cm位のずんぐりとした五輪塔があり、碑文には「日州佐土原(以下判読不能)」、正面の鳥居には「松寿院」の額がかかっています。
※カメラのズームを間違ったわけではなく、鳥居の高さがホントにこれくらい低いんです(^^;)

※ブラウザの右上「×」をクリックしてウィンドウを閉じて元の画面にお戻り下さい。