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高野山と島津。(石田三成の墓)

石田三成の墓所
高さは1m50cmぐらいだったかな。島津家四番墓のすぐとなり(!)にあります。何とも因果。
こちらの墓は生前に長命祈願のために自身が建てた「逆修墓」です。結局効果はなかったようですが(^^;)。織豊時代の高野山の高僧・木食応其は”九州御動座”で秀吉の使者を勤めるなど、当時の高野山は豊臣家と深い関わりと持っていました。
(以上『高野山戦国大名之墓碑 前編 1』(宮川良彦編・日本古史跡研究会)による)


石田三成はご存じのように豊臣秀吉の寵臣であり、諸大名と秀吉の間の取り次ぎを勤め”文官”として活躍。島津家を始め、佐竹家、南部家の文禄太閤検地では実質的に采配を振るい、そのお礼として諸大名家の中に飛び地を持つなど次第に権勢を高める。が、「取り次ぎ役」に起因する諸大名家への内政への口出しは次第に島津家を初めとする諸大名家の中に内紛を起こすきっかけを作った。また、朝鮮出兵の時に友人である小西行長に肩入れし、対立していた加藤清正らを一時失脚させたことから次第に”武功派”の大名から毛嫌いされるようになる。それらが原因となって1599年(慶長4年)に福島正則・細川忠興らを中心とする”武功派7人衆”に暗殺されかかり、その結果五奉行を辞職させられ政界より失脚。1600年(慶長5年)、勢いを増す徳川家康に豊臣家を圧倒する勢いを感じ義侠心から挙兵するも、関ヶ原での戦いで惨敗、捕らえられて京都三条河原で斬首刑となった。

その墓は京都市の大徳寺三玄院にあります。戦前にはその墓が発掘されて遺骨も出土しております。

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