某女(島津運久(忠幸)側室)
生没年未詳
<略歴>
永正〜大永頃の人物。「島津氏正統系図」「寛永諸氏系譜」など島津家側の公式史料には全く記載されていない。
「旧記雑録」前編2−1962によると「東武昵懇の士島津主馬某家伝云、其先祖島津相模守運久に出づ、運久の子僧となり長徳軒と云、遍歴して相州小田原に居し、還俗して後藤氏を冒す(以下略)」とある。
確かに小田原北条氏の家臣に島津運久の子孫を称する一族がいたのは事実であることが確認されている(『薩摩島津氏』)。おそらく、彼は既に島津運久の後継者に島津忠良が決定した後に生まれたために、僧侶となり薩摩を去らざるを得なかったのでは無かろうか。また、運久実子という血統を持っていたが為に、その後島津家側の史料からは全て消されてしまったのではないかと思われる。
もちろん、この子を産んだ女性の素性・生没年・その後も一切不明である。
年度 (日本歴) |
年度 (西暦) |
年齢 | 出来事 | 出典 |
(年度不明 永正初年) |
島津運久の子(長徳軒 後 島津忠貞)を産む | 「旧記雑録」前2−1962 「諸家系図」 |
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享禄頃 | 1530 〜1531 |
長徳軒が19歳の時に薩摩を出て足利学校に向かうが、駿河の沖で乗船が難破、今川氏親に助けられる その後氏親の命で還俗し「忠貞」を名乗る |
「諸家系図」 | |
天文初年頃 | 1535前後 | 忠貞、今川氏親の元から、北条氏綱の元に招かれる | 「諸家系図」 | |
永禄2 8月12日 |
1559 | 忠貞戦死、福寿山清徳寺(現 東京都品川区)に葬られる | 「新編武蔵風土記稿」53 東海寺 | |
永禄年中 8月20日 |
「諸家系図」 | |||
(年度不明 島津光久代) |
1640〜 | 忠貞の子孫・後藤氏が島津光久に島津姓の許可を願い出、系図への明記は拒否されたが、島津姓名乗りは許可される | 「旧記雑録」前2−1962 |