島津義虎女(志岐親重室)

生年未詳(天正8年以前)〜没年未詳(寛永10年以降)

<略歴>
島津氏の有力分家・薩州家の当主・島津義虎の一人娘。母は「諸氏系譜」では「他腹」とあり氏名は不明である。
天正8年に天草の有力国人であった志岐親重に嫁ぐ。この親重、実は肥前の有力戦国大名・有馬晴純の五男で有り、実に巧妙に仕組まれた政略結婚であった。
しかし、天正15年の豊臣秀吉の九州御同座以降は天草の情勢は激しく変動、小西行長の家臣となることを命じられた志岐親重等天草の国人は反旗を翻す。この一揆は加藤清正によって押さえられ、死罪は免れたがその後の志岐氏は小西行長の家臣に転落する。また、文禄4年には実家の薩州家が弟・島津忠辰の謀反により改易される。更に慶長5年の関ヶ原の合戦で小西行長は死刑となるが、志岐親重はその後無事に加藤清正に召し抱えられた。この間の義虎女の動向は不明だが、おそらく夫と行動を共にし肥後の八代へ転居したと思われる。
ところが、寛永9年にはその加藤氏も改易。志岐家は遂に浪人となり、故郷の天草に帰るが生活は立ち行かなかったらしく、親重の息子と島津義虎女は入来院家(その頃の当主は島津義虎女の弟・重高)を頼って川内(現・鹿児島県川内市)に密航した。義虎女の没年は不明だが、息子は島津家の陪臣となり一生を全うしている。
ちなみに、志岐親重は「ドン・ジョアン」という洗礼名を持つキリシタンだった(「フロイス日本史」など)が、島津義虎女もキリシタンとなったかどうかは判然としない。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明
天正8以前)
〜1580 誕生 父・島津義虎 母・不明 「諸氏系譜」薩州用久 義虎長女
天正8 1580 天草の有力国人・志岐鎮経の嫡男である親重に嫁ぐ
親重は実は有馬晴純の五男であった
「志岐文書」56志岐系図 親重
天正17
11月5日
1589 夫・親重が加藤清正と合戦するも、大敗を喫し降参する
その後豊臣秀吉の命により、小西行長預かりとなり八代に移住
「志岐文書」56志岐系図 親重
(年度不明) 長男・虎千代丸(後の志岐益親)を八代で出産 「志岐文書」56志岐系図 益親
文禄元 1592 夫・親重が小西行長の部下として朝鮮に渡海 「志岐文書」56志岐系図 親重
文禄2
5月1日
1593 豊臣秀吉が島津忠辰の改易を決定
薩州家断絶する
「本藩人物志」国賊伝島津忠辰
慶長5 1600 関ヶ原の合戦
小西行長が処刑されたため、以後加藤清正預かりとなる
「志岐文書」56志岐系図 親重
慶長8 1603 次男・親昌出産 「志岐文書」56志岐系図 親昌
慶長12
3月15日
1607 夫・親重が八代で死去(享年不明) 「志岐文書」56志岐系図 親重
寛永3
7月6日
1626 長男・益親が八代で死去(享年不明) 「志岐文書」56志岐系図 益親
寛永9 1632 加藤氏が改易
浪人となり、旧本願地の志岐に退去する
「志岐文書」56志岐系図 親昌
寛永10
3月23日
1633 親昌と同心し、志岐を脱出し船で薩摩川内に逃げる
その後入来内浦の村に住まいを構える
「志岐文書」56志岐系図 親昌
(寛永10〜寛永14)
5月2日
1663〜1637 弟・入来院重高が、伊勢貞昌の尽力で親昌に知行が与えられたことを感謝する書状を島津久慶に送る 「志岐文書」50 入来院重高書状
寛永14
5月28日
1637 島津家より300石を安堵される 「志岐文書」52 嶋津家老中連書状写
正保4
9月9日
1647 志岐親昌、入来で死去(享年45歳) 「志岐文書」56志岐系図 親昌

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