大寺氏女(伊地知重元室)

生年未詳〜文禄元(1592)年6月頃<享年不明>

<略歴>
伊地知重元の妻で、一子・勘解由左衛門重○(下一字不明)を産むも、夫が朝鮮出兵で戦死。葬式の際、形見の刀で喉を付いて後追い自殺しようとした。が、周囲の者がその刀を奪ったために急所を外れ、死に損ねてしまった。
その後、島津義久が村田経信を見舞いの使者として使わし「重元ヶ妻無了見ニテ自害ヲ仕タル由聞給ヒキ士ハ敵軍ニ向テ戦死スルハ常ノ事ナリ医師ヲモ遣サルヘキノ間能養生シテ一子ヲ育テ御用ニ立タシムベキヨシ上意ナリ」と伝えたが、彼女はそれを聞いて合掌するなり、舌を自らかみきって死んでしまったという、なかなかに興味深いエピソードが残されている。
ちなみに残された一子・伊地知勘解由左衛門だが、その後島津義弘の元で成長し、後に御普請奉行となり313石取りとなっている(「本藩人物志」伊地知重秀)。
夫・伊地知重元は大隅の有力国人・伊地知氏の分家の出身。但し、この系統は早くから島津支配下となったらしく島津苗字使用の免許をもらっている(「本藩人物志」伊地知重秀)。実家である大寺氏は島津忠国の家老となった大寺忠幸の系統と思われる(「本藩人物志」大寺大炊介)が、詳細は不明。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
天正17 1589 伊地知重元の嫡男(後の伊地知勘解由左衛門)を産む 「本藩人物志」伊地知重秀
文禄元
6月17日
1592 夫・重元が朝鮮で戦死<享年不明> 「本藩人物志」伊地知重秀
文禄元 重元の葬儀の際、形見の脇差しで喉を突いて自殺しようとしたが果たせず 「本藩人物志」伊地知重秀、女子伝大寺氏女
島津義久の使者・村田雅楽介の前で舌をかみきって自殺する 「本藩人物志」女子伝 大寺氏女

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