帖佐氏女(頴娃兼堅室)

生没年未詳

<略歴>
天文末年〜天正頃の女性。『頴娃町郷土史』では「頴娃兼堅の側室」とされている。が、頴娃兼堅の妻としては彼女の他には最初の子・兼有を産んだ樺山信久女しか系図に見えないところから見て、樺山信久女の死後に兼堅の実質的な後室となった物であろうと考えられる。
彼女は兼堅の死後、先妻の生んだ兼有を疎ましく思い、自分の子・久虎に頴娃氏を嗣がせたがっていた。しかし、兼有には後見として島津貴久がついていたために兼有を排斥できずにいた。貴久が死んだ後の元亀3年(1572年)、頴娃氏重臣・頴娃兼豊と談合し、開聞神社参拝中の兼有を暗殺した。これによって幼君・久虎の母として頴娃氏の実権を握った彼女は次第に専横を極め、かつての仲間であった頴娃兼豊らとも対立する有様となった。この騒動が島津家にも知れるところとなり、島津義久は本田親正に命じて介入を行い、頴娃兼豊は処刑、兼豊派の頴娃氏家臣には証恩寺にて切腹を命じた。この事件は「証恩寺崩れ」と言われ、頴娃氏に大きな影を落とすことになった。但し、この後帖佐氏女も一緒に処罰されたのか、その後どうなったかははっきりしない。


<年譜>
年度
(日本歴)
年度
(西暦)
年齢 出来事 出典
(年度不明) 兼堅長女(後 本田親正室)を産む 「伴姓頴娃氏系図」
(年度不明) 兼堅次女(後 肝付兼寛室)を産む 「伴姓頴娃氏系図」
永禄元 1558 兼堅次男・全福(後 頴娃久虎)を産む 「伴姓頴娃氏系図」
(年度不明) 兼堅三女(後 川上久辰室)を産む 「伴姓頴娃氏系図」
永禄5
8月
1562 大通寺に逆修墓を建立する 頴娃兼堅側室墓銘文
元亀元 1570 頴娃兼有を暗殺、
久虎が島津義久によって頴娃氏の後継者とされる
「伴姓頴娃氏系図」
天正15
8月4日
1587 頴娃久虎が落馬死<享年30歳> 「伴姓頴娃氏系図」
「本藩人物志」頴娃久虎
(年度不明) 死去 法号「令泉妙大姉」
夫・頴娃兼堅の墓のある頴娃城に合葬される
頴娃兼堅側室墓銘文

<墓所>
・大通寺跡
 ※1990年(平成2年)に史跡整備事業により頴娃城跡から頴娃氏菩提寺のあった大通寺跡史跡公園に移築された。

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